先日、新型コロナウイルスに感染した山梨県の女性に対し、「コロナを撒き散らしている」などとして批判が集中し、本人特定をはじめとした執拗な誹謗中傷が起こったことは記憶に新しいです。
もちろんこの女性のとった行動は褒められたものではありませんが、感染者をことさら悪者に仕立てようとする雰囲気はないでしょうか。
日本人の意識と欧米人の意識の違い
この根底にあるのはもちろん、「死への恐怖」でしょう。
新型コロナウイルスはとても感染力が強く、程度の差こそあれど老若男女を問わず死の危険性がある。
世界ですでに30万人以上が亡くなっており、少ないとはいえ日本でも数百人が死んでいる。誰もが知っている有名人も亡くなってるし、身近に亡くなった方がいる場合もあるでしょう。
この事実を前にして、「自分を殺すかもしれない」感染者を責めたいという気持ちは、一定の理解はできると思います。
ただ、ここに日本人と欧米人との意識の違いが出るような気がしてなりません。
それは、欧米人の「狩猟民族的意識」と日本人の「農耕民族的意識」さらに突っ込んでいえば「ムラ意識」の違いなのではないでしょうか。
狩猟民族的意識においては、いつなんどき敵が襲ってくるか、獲物が牙を剥くかわかりません。いつでも身の危険があります。
そんな状況において、コロナウイルスにかかるのは「思いもしなかった場所からいきなり襲ってきた猛獣」みたいなものかもしれません。
いつでも襲われる可能性はあり準備をしていても、不幸にも本当に襲われて死んでしまうことはあります。
一種の運です。運という言い方がよくなければ、運命と言い換えてもいいでしょう。
そうなったら、仕方ありません。襲った猛獣を責めてみたところで、何の解決にもなりません。運命と思って受け入れるしかないのではないでしょうか。
一方、農耕民族的意識においては、皆が共同体で互助的に生きていきます。
たとえば、田畑に必要な水は皆で共有します。
だれもが、色々なものを共有し、暗黙的にも明示的にもさまざまなことを調整しながら共同体を維持していきます。
そんなところで、一人が勝手に水を全部使ったらどうなるでしょうか。
特に、田んぼは大量の水を必要とします。余談ですが、アフリカで農業生産性が悪いのは、何より灌漑が発達していないためだそうです。灌漑設備は技術的な問題もありますが、維持するためには、共同体での協力が不可欠です。
その人が身勝手にとった行動のせいで、その水を共有している他の人皆が迷惑し、作物をつくることができなくなります。
水はほんの一例ですが、そのような共同体の規律を乱す行動をとった人に対しては、日本では「村八分」という厳しい責めが待っています。
これは、運でも運命でもありません。自らがルールを破ることにより招いた厄災です。
また責める方も、厄災の原因を取り除くことが共同体の安全と平和を維持するために必要ですし、結果的に自らの生命を左右することと認識されますので、厳しくなるでしょう。
コロナウイルスについても同じで、「まだ感染していない」自分と共同体を守るために、異端である感染者を攻撃し、身を守ろうとするのではないでしょうか。
つまり、感染者である異端を排斥することで「感染していない身内」の結束を高め、「感染していない共同体を守る」という、防御反応が出ていると考えることができると思います。
営業を続ける飲食店など対する「自粛警察」と言われる排斥活動も、同じ意識から出ているのではないでしょうか。
ロックダウンせず自粛だけで済むのも同じ意識から
多くの国で「罰則付き外出禁止」という強い政策を実行する中、日本は「緊急事態宣言」とはいえども、強制力のある政策を取っていません。
基本的に戦後の日本では行動制限に対する抵抗感が強く、外出自粛の「要請」に止まっています。
それでも、外出者数は政府が要請している8割減に近いレベルを達成し、感染者数の増加はスピードダウンしてきています。
これはむしろ、前述したような意識が影響している日本の特殊性ということもできると思います。
ロックダウンのような法律上の強い制限を行わなくても、農耕民族的ムラ意識が「自粛」によって十分制限の効果を発揮するのです。
それに反する人には、「現代の村八分」が待っており、日本ではそれは「社会的抹殺」を意味するのです。
そして、私やあなたが、何よりその「村八分」を恐れているのです。
匿名
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