(松塚:H2卒) [Mito1:1004] ] Ikkandou
先週の週末に実家に行った際に、「水戸一高百年史」を読んだところ、
一貫道についての記述があったので御紹介します。
「水戸一高百年史」435ページ
一五年夏期の勤労作業で一、二年は校舎内外の清掃、三、四年は道路構築にあた
り、五年は指揮班として下級各学年生の作業を指揮した。道路構築班も上級生、
下級生がよく融和、共同して作業に当たり、見事な道路を作った。道の名称は生
徒から募集した結果、野口毅(四年)・沼知文也(三年)が校是に因んで案出した
「一貫道」が採用、命名された。当初は北側の道だけだったが、その後一八年一〇
月ごろ、日赤病院に面した篠やぶを切り開いて「戦場競技コース」と名を変えた。
体操や教練で駈け足をやるのに大いに利用され、その道順は上運動場で準備体操
をして坂道を下り、下運動場下市方面口、日赤側、凸凹の細道(途中に杉林あり)、
江山閣(旧)下の水郡線寄りの角から江山閣側の土堤に出(正門へ降りてまた登る)、
浩玻の銅像、両側の端沿いに上運動場に至る約一キロのコースであった。
ほかに年表によると、昭和15年7月 一貫道建設とあります。
(858ページ)
大島さん [Mito1:666]
> 昭和14,5年ごろ、下市からキャンパスを通り抜けて、本城橋の方へ行く一
> 般人が多いので、敷地の西側に道を造ろうということになりました。勤労奉仕
> というその頃流行り出したやり方で、生徒が人海戦術で、けものみちよりは数
> 等ましな道路を造りました。名前を公募して「汗の道」やら「報国道路」やら
> 応募があったのですが、当時の学校の標語であった、「至誠一貫、堅忍力行」
> からとった一貫道が選ばれました。
この2つを合わせると、
- 一貫道はのちに延長され、「戦場競技コース」と名前を変えた。
この時点で日赤病院に面していた。
- 下市から本城橋方面に抜ける道であった。
ということになります。
現在の日赤へ降りる道が下運動場下市方面口であったかどうかは定かでは
ありませんが、そこから日赤そばを経由して水郡線方面に抜ける崖そばの
道が現在もあり、これが一貫道である可能性があります。